こんにちは、真美研究所主宰の豊田ふみこです。
「言葉は身の文(あや)」ということわざをご存知でしょうか。
話す言葉はその人の人格や品位までも表す、という意味です。
私たちはそんなことを無自覚に思っているからなのか「言葉を磨きたい」と思う方も多いのではないかと思います。
詩作を通して知る自分
今コミュニティメンバーと「ある条件」のもと詩作をしていますが、その詩作を通して、普段自分が「どのような言葉を拾っているのか」「どのような言葉を好んで用いているのか」が、面白いくらいに浮き彫りになります。そこには、自分の価値観が露わになります。
言葉の偏りは、思考の偏り
ある時、一緒に学ぶ文芸員から、自分の言葉の偏りについて指摘され、ハッとさせられました。
自分の色を消そうとしても、その表現した言葉に「自分らしさ」が炙り出される。
それは、一見良いことのように思うかもしれませんが、なにごとにも表と裏があります。
言葉の偏りが物事の捉え方の偏りを表しているとも捉えられるからです。

言葉の限界が世界の限界
「言葉の限界が世界の限界」と、哲学者ウィトゲンシュタインは言いました。
普段、自分が捉えている言葉が自分の興味のある範囲に留まっていると、同じような発想しか浮かばなくなるのは必然です。
これでは自分がキャッチする言葉が変わらないので、同じような発想しか浮かばなくなり、知らず知らずのうちに閉じられた世界になっていきます。
「似たようなことしか言えない」とか「いつも発想が同じだな」と思うのは、凝り固まったイメージを貼り付けた、似たような言葉ばかりを用いたり拾っているからかもしれません。
言葉を磨くその前に
言葉を磨くこと以前に、どんな言葉を自分が使っているのか、どんな言葉に反応しているのか。まず現状を知ることが大事です。しかし、「自分の言葉を知る」というのは、至難の技。
三思文学で扱うのは「主観美」ではなく「客観美」です。この客観美を言葉にして一度外に出すことにより自分の言葉を客観視できます。そのため、詩作をすることは自分を知ること、になるのです。